代表しんのエデュケーションコラム

Column of the Representative Director Shin

HOME | 代表齋藤新のコラム | 代表しんのエデュケーションコラム2024

NPOグリーンウッド代表理事(齋藤新)

 
事務局長・しんのエデュケーションコラム一覧

2025年3月
卒業式をこどもが創る意味

 
 暮らしの学校だいだらぼっちの1年が終わりました。小学4年生から中学2年生まで17人のこどもたちが共同生活を送るだけでも大変なのに、加えて毎日ご飯を作り、薪で風呂を焚き、掃除洗濯をして、1年の全てのことを自分たちで考える暮らし。こどもたちにとって「大変」などという簡単な一言だけでは片づけられない経験と共に、言葉にできない様々な感情を味わったことと思います。1年を終えたこどもたちは大きな自信と素晴らしい仲間を得て、それぞれの暮らしに帰っていきました。
 さてだいだらぼっちでは1年の締めくくりに「引継会」という1泊2日の会を行います。簡単に言えば、卒業式と入学式を合わせたもの。これは初代のこどもたちが考えたもので、「自分たちが創り上げただいだらぼっちを次の年に引き継いでいきたい」という想いで始まりました。当時はまさに母屋を建築していたので、具体的に作業がどこまで進んでいるのか、何をしなければいけないのかを引き継ぐ必要もあったからだと思います。
 今も「想いを引き継ぐ」ということで、こどもたち自身が内容を考え、全ての進行も行います。先日行われた引継会では「薪作業の大変さや面白さを体験してもらいたい」と100人薪リレーを行ったり、「陶芸や木工、草木染などものづくりの面白さを新しいメンバーがチャレンジするきっかけになるように」とものづくり展示を行ったり、「1年の想い出を炎で焚き上げるのだ」とどんど焼きを行ったりと、今年のこどもたちらしい創意と工夫が溢れる素晴らしい会が行われました。
 しかし大切なのは「伝えたいことが伝わり、かつ楽しいプログラムであること」ではありません。それはあくまで結果であり「何のために引継会をするのか」をこどもたち自身が考え実行することです。そこには過ごした時間で得たものを咀嚼し、言葉にして新たな仲間に伝えるための思考があります。そして考え抜いたこどもたちの運営する姿が、新しく参加するこどもたちの「1年後の自分の姿」のイメージになることが本質なのです。
 
 卒業式などのセレモニーはものごとの区切りをつけるために、なくてはならないものです。しかし始まったときには意味があったものがだんだんと形骸化していき、形ばかりになることはよくあります。私の高校はひと学年が1000人を超えるマンモス校でしたが、卒業式では全員の名前が呼ばれました。正直名前を呼ぶだけで2時間近く(いやそれ以上?)かかっていて、卒業の寂しさや喜びよりも早く終わらないかという苦痛しかありませんでした。しかも卒業式の練習も何度と行われ、座る姿勢や返事の仕方、校歌の声の大きさまで指導され、いったい誰のための卒業式なのかと疑問に感じ、続けるうちに卒業式が楽しみではなくなっていました。
 それも良い思い出と言えばその通りですが、自分たちの区切りをどのような形にしたいか?それは何のために行うのか?をこどもたち自身に預けることは、自分たちを振り返り、何を得て、未来をどのように歩くのかを考える大切な機会であり、それこそが学びを腑に落とす時間となります。こどもたちの主体的な学びのためにも、本来であればそういった時間こそ必要なのではと感じます。
 
 
 
 

2025年2月
労働人口1100万人足りない時代にどう備える?

 
 「労働人口不足1100万人の衝撃」という本を読みました。2040年には1100万人の労働力が不足し、地方やエッセンシャルワーカーを中心に人手不足が進み、これまでの当たり前の暮らしが成り立たなくなるという内容です。既にその兆候はそこかしこに見え始めています。
 元々人口の少ない泰阜村では大きな影響は見えくいですが、今後急速に変化するでしょう。村内の水道設備を見ていた方が亡くなり、現在はお一人の方が対応していますが、寒波で水道管が凍った場合など、到底村内すべてを一人では対応できないと思います。自然災害が増えている昨今、ひとたび何かが起こるとこれまでの暮らしが成り立たなくなる可能性があります。
 一方で、村の暮らしが影響をそこまで感じていないのは、畑仕事や山仕事、大工仕事などを自分でできる人が多く、互助の関係があるからです。先日も有志の村民方たちで道路の支障木を除間伐し、県道沿いをきれいに保つ作業をされていました。村から委託を受けているそうですが、これは職業というよりも自分たちが村で暮らすための仕事です。
 この姿を見ていると、私自身もこの村で暮らし続けるためには職業としての役割だけでなく、自分ができることに積極的に関わり、次の世代として担わなければならないと感じます。
 これは大きなヒントではないでしょうか。働くというと職業に就くことをイメージしがちですが、今後サービスが成り立たなくなる社会で、自分の「労働」の提供で自分のいるコミュニティーの課題を解決できる視点があれば、関係性の広がりや共生・協働の実感も増し、苦労はあるけれど豊かになるのではないでしょうか。
 そのためにはネガティブなイメージの「労働」という言葉をポジティブに捉える経験が必要です。泰阜村の前村長は「周回遅れのトップランナー」と表現しましたが、高齢化が進み労働人口が少ない中でも互助で暮らす泰阜村の暮らしが社会に伝えられることはまだまだあるように感じます。
 
 
 
 

2025年1月
わかりやすいを乗り越える

 
 最近、本の編集やライターをされている方とお話しする機会がありました。そんな中で本屋に行けば「○○のためのたったひとつのこと」や「〇〇さえできればうまくいく」といったタイトルの、あたかも簡単でより良い答えが書かれているような本ばかりが溢れているよねという話がでました。私も随分前から気になっていました。その流れはテレビもSNSも広告も同様で本だけではありません。先の選挙でもyoutubeが活用され、候補者の主張やその人物のウリや正しさがことさらに強調するよう切り取られた動画もよく見られました。コスパタイパが強調される社会の結果なのでしょう。

 わかりやすく伝えることは悪いことではありません。私たちも話す相手が「幼児」なのか、「小学生」なのか、「親」なのかによって言葉の選び方や話す内容も変えて、伝わるように努力します。けれど伝わるかどうかは、伝え方の工夫はあっても双方の問題です。
 本来、理解とは互いの主体的な歩み寄りによって生まれるもののはずです。深く洞察し、考え、理解しようとする行為が奪われることは、わかりにくいもの、理解できないものの排除や見えないことにしてしまっているのではないかと不安を感じます。最近はSNSにあがる動画も短くなっています。楽しさも「瞬間」を求められ、それが社会化していくこと、そしてそれらを消費する受け手側が考えることを止めて退化していくのではと怖れも感じます。
 社会で起きる出来事は一言では到底説明できないものばかりです。彼の地のリーダーが交代し、わかりやすい社会に進んでいく様子を見ていると、その先に訪れるであろう混沌に心穏やかではいられません。白か黒か、正か悪かではあらわせない濃淡あるグラデーションの中で人は生きています。物語や娯楽の中だけであったはずの勧善懲悪が社会に投影されていく動きは、誰かを糾弾する自分自身の生き方も苦しくし、居場所を奪うことにつながりかねません。
 単純化される時代だからこそ、わからないで終わらず、わからないことを超えてこそ世界は開くのだとこどもたちには伝えていかなければなりません。そのためには、「わからない」ことが次々と起こる場での体験が必要です。それが体験できるのは、コントロールできない自然の中での多種多様な人と必然的に関わらなければならない暮らしの場だとわたしは考えています。
 
 
 
 

[%new:New%] [%article_date_notime_dot%]

[%title%]