事務局長しんのエデュケーションコラム

Education Column of the secretary-general SHIN 

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2024年10月
「一人一票の職場」は理想論?

 
 グリーンウッドは様々な課題が出る度にスタッフ全員で集まって話し合い、決めています。もうすぐ40年を迎えるのでこの先の団体の方向性を決めることも多くあり、全員で集まる機会も増えています。そのための時間調整や他の仕事への影響もあるのでなかなか難しいのですが、この時間があるとないとでは課題に対してスタッフの理解と納得、次の行動が違います。スタッフ1年目も創業メンバーも、代表も他のスタッフも、等しく同じく意見を言い、全員で納得するまで話し合う「一人一票」の職場を作っています。

 
 かつて「グリーンウッドの働き方もこどもたちと同じく一人一票の職場にして、全員で色んなことを決めていきたいんだ」と人に話したことがあります。その際に「長くいるスタッフは2票分投じられるとか、そうした方がいいのでは」とむしろ「理想と現実は違う」と諭されてしまいました。

 
 数年前から事業計画作りもその成果を図ることもスタッフがチームで考えて実行するようにしてきました。またトラブルや困りごとがあれば全員で意見を話し合う場を都度創っています。特に私たちの職場は「業務」以外の暮らしも共有しているので、トップダウンで決められないものも多いため、必然的に話し合いをする場が多くあります。そんな中で直面したコロナ禍。誰も答えがわからない事態に直面し、全員で不安を出し、対策を考え議論し、乗り越えたことで結果的に「一人一票」の職場になってきた感があります。

 
 私たちが考える「一人一票」は多数決で物事を決めるというものではありません。それでは数が多い方が正しいことになり、少数派の提案や気持ちがついていきません。「一人一票」とは、場を共有する全ての人が自分の考えを表明でき、聞いてもらえる権利があること。そして全員が納得して答えを出すということです。それは投じられた意見が必ず取り入れてもらえるというものではありません。かといって全員が100%満足する答えではないことも受け入れるものです。大切なのは、全員が納得する答えを模索する過程を共有しているかどうかです。それが互いの理解が生まれ、主体的な行動につながります。
 時間を持ち寄るのも難しく、また新人スタッフは率直な意見を言いづらいということもあると思います。それでも団体の文化として「一人一票」で「話し合って決める」を繰り返すことが、懸けた時間以上の価値を生み出していると感じます。
 
 
 
 

2024年9月
1年の暮らしがこどもに与えるものはなに?

 
先日ある企画で、だいだらぼっちのOBOGたちにインタビュアーの方がだいだらぼっちの経験が今の生活にどのように生きているかを聞く機会がありました。その中で特に印象的だった3つを紹介します。
 
「うまくいかないことから逃げずになんとかする」
もうだいだらを辞めてお家に帰りたいと思ったとき、仲間の存在があったことで乗り越えられたそうです。仲間の存在といっても、当然全員が仲がいいわけもなく、むしろ苦手な人もいます。それでも「泰阜村で仲間と自分たちの力で暮らす」という一番根っこの部分がつながっていることが、最後のふんばりに繋がったそうです。その乗り越えた経験が原体験となって、その先に起きた困難な状況も「逃げずになんとかする」ということが当たり前になっている様子でした。
 
「物事のつながりを考えるようになった」
だいだらぼっちは毎日のお風呂は薪で焚きます。その薪も山から出したり、村の方からいただいたりして集め、斧で割ってみんなで用意します。「風呂に入る」ひとつとっても、自然とつながり、人と繋がり、たくさんの過程を経てたどり着きます。陶芸で作る食器も、ただ粘土をこねて作るだけでなく、1200℃を超える窯で焚き上げて作ります。その経験が他の人と物事を捉える解像度を変えていると話していました。
「いつもではないけど、例えばスマホを見て、この中の部品はどこの国でどうやって作られているのか?とか、そういったことをふと考えることがよくある」「いろいろなものの見方捉え方が変わって、様々なこと想像する力はあると思う」。自分の行動や行為の後先につながるものを想像し、自分と社会をつなげて考えられる力を感じます。
 
「実際にやってみることが大事」
アニメの薪割はパカパカと簡単に割れるけど、実際に経験するとそんなに簡単ではない。やってみないとわからないことがたくさんあることを知ったとのこと。だいだらぼっちの様々な体験は普通の暮らしでは出会わないことばかりです。「とりあえずやってみたい」と思ったとき、「やってみないとわからない」「やってみたらなんとかなる」という経験が、人生の大きな決断の場面で生きているそうです。
 
ちょうど私がだいだらぼっちの責任者をしていた時期のこどもたちだったので、彼らが大人になって、当時の様々な出来事をどのように捉えているか興味半分、一方で少し怖さもありました。というのもだいだらぼっちの暮らしは楽しいことばかりではありませんし、当時はもめごとも多く、こどもたちもつらい思いもたくさんしていたからです。おそらく楽しかったのは全体の2割くらい。それ以外の8割が大変でつらくて面倒なことだったのではないかと大人の視点から感じていました。けれどその困難さがこどもたちのねっこを育て、今の生き方を変えていること。そして大人が大変だろうと思っているものも、実は強かに軽やかに楽しさを見つけ乗り越えていたのだと彼らの言葉で教えてもらえたのは、とても勇気づけられました。
今年のだいだらぼっちのこどもたちも右往左往しながら、時に仲間との関係を諦めたくなったり、悔し涙を流したり、ふさいでいることもあります。それでもここでの暮らしの「意味」が必ず将来に生きてきます。しかし言葉で説明しても理解はできません。自分の身体で体験して発見していく他はないのです。残り半年のだいだらぼっちの暮らしをとにかく真正面から受け取っていってほしいと願うばかりです。
 
 
 
 
 

2024年8月
つながりが生み出す豊かさって何?

 
 657名のこどもが参加した夏の山賊キャンプも8/25に全18コースを無事終えました。参加していただいたみなさま、本当にありがとうございました。
 山賊キャンプは、私たちグリーンウッドスタッフだけでは運営できません。182名の青年ボランティアをはじめ、泰阜村の農家の方や役場、住民の皆様の協力で成り立っています。
 今年度もキャンプのボランティアや裏方の手伝いに、山村留学のOBOGや、大学生となった元キャンプ参加者がたくさん参加してくました。またバスの集合解散場所には山村留学の保護者の方も手伝ってくれています。さらにはなんと山村留学の一期生(1986年)のこども(しかも2人!)が2週間以上関わる長期ボランティアや裏方として手伝いに来てくれました。40年前の縁、積み重ねてきた縁が今につながる豊かさを感じます。
 
 さてこの「豊かさ」とは何でしょうか?
 
 私は『多様な人が集まり、相互に響き合って作用し、人が関われば関わるほど場がより良く変化していく状況』こそ「豊かさ」なのではないかと思います。
 対義的な表現をするならば、役割が限定され、関わりは一面的。同じような考え方の人だけが集まって価値観が固定されている。ということです。つまり「私でなくても、誰でもよい」関わりです。簡単に言えば「積極的に何かしようとするのは無駄」を学んでしまう状況です。
 翻って見れば、現代社会は「自分」を出すこと自体がリスクだと感じてしまう雰囲気が蔓延しています。なるべく当たり障りがなく、周囲と同じであることで安心する。その一方で、細い平均台から落ちないように必死になり、いつも不安を感じて暮らしているようにも感じます。
 
 暮らしを基本とした山賊キャンプは、繕ったり、誰かに合わせたり、指示を待っていては前に進みません。そこにいる人全員が積極的に関わらないと暮らせない、という必然からこそ、自分自身で関わろうという主体性と共に、そこでの肯定的体験がまた次の積極的、協働的な動きにつながるのだと思います。役割があることで自分を肯定し、「自分だからできた」という実感が主体性を生み出します。

 この3年取り組んでいる児童養護施設のこども対象キャンプも、元々は施設の職員の方が山賊キャンプボランティアだった縁から始まっています。今年は別のボランティアの方の職場で講演をしてほしいとお願いされています。これまで創り出した関わりが、キャンプという場に留まらず、より良い社会を創り出すため積極的に動き出している証拠です。
 繋がった縁をお互いに補完し、支え、生かし合いながら社会を創り出す。これは社会の本質です。誰もが主体者として社会と関わるという当たり前を取り戻すためにも、こどもキャンプは重要なのだと感じています。
 
 
 
 
 
 

2024年7月
「外で遊ぶ」がリスクの時代。大人の役割は?

 
 7/23より山賊キャンプがはじまりました。毎日こどもたちは暑い太陽の下、冷たい川で歓声を上げて遊んでいます。暑い夏だから楽しめる遊びを満喫中です。
 
 年々、日本中が暑くなっています。ニュースでは熱中症で搬送されたり、亡くなったりされた方の数が報道されて異様さは増していますが、それももはや日常になりつつあります。泰阜村はというと朝晩は半袖だと涼しいと感じるほどで、日中も日陰に入ればそこまでの暑さを感じませんが、太陽の厳しさは強くなっているように感じます。
これまでは「外遊びの仕方」にリスクがありました。今はこどもが「外で遊ぶこと」そのものがリスクになっています。
 
 コロナ禍では、人との接触を極限まで避ける方策がとられ、体験の場はもとより食事中の会話すら奪われました。今の猛暑はコロナ禍のように強烈なリスクマネジメントが取られてもおかしくない状況だと感じています。
 しかし考えなくてはいけないのは、「外に出さない=ノーリスク」ではあるけれど、それ以外のリスクについて検討しなくてよいのかということです。こどもたちは自由に遊ぶ中で主体性を学びます。ご飯作りでは仲間との協働や、やったことのないチャレンジをしたり、五感をフルに使い感性を育てたり、こどもたちが成長するためのチャンスが自然の中にあふれています。しかし外に出さないとなれば、これらを得る機会を失ってしまいます。身体の安全を守ることは最優先で、「こどもたちに体験をさせたい!」と感情で動いて危険にさらすことだけは避けなければなりません。しかしこどもたちの成長の場を失うことは未来のリスクを生み出してしまうのです。先日朝日新聞で「遊べないこども」が特集されていましたが、そんなこどもを生み出したのは大人であり社会なのだと強く認識する必要があります。
 
 「ノーリスク」が求められている現代社会。大切なのはわかりやすいリスクのみ対応するのではなく、未来を見据えた広い視座に立ってのリスクマネジメントが必要だと認識すること、そしてその方法を編み出すことです。そのためには、覚悟を持ち、常に工夫しチャレンジする行動し続ける大人の存在が不可欠なのだと思います。
 
 
 
 
 

2024年6月
疑問を持つ力は世の中を理解しようとする力

 
 息子がNHKラジオのこども科学相談室の質問者として出演しました。恐竜好きで図鑑の全ての文章を隈なく読んでいる彼は、尊敬する恐竜学者の小林先生、田中先生に質問したいと番組HPを見ては「先生はいつ出演するのか?」をチェックしていました。質問フォームに入力すると「いつ出られるのか?」ともう出られるものと考えている様子です。「めちゃくちゃたくさん質問が来るから選ばれるかわからないよ」と話しても、「まだかまだか」と毎日ソワソワしていました。
 そんなソワソワもなくなり、すっかり忘れていたころに私の携帯に見知らぬ電話番号から電話が。「NHKのこども科学電話相談室で」。!!!。突然の電話で少しテンパりました。当の息子も「何の質問したんだったけ?」ととぼけた様子を見せてアワアワしている間に、簡単な打ち合わせが終了。出演が決まりました。
 
 当日は一番最初の質問者として登場ということで電話をつなぎ待機しています。その電話から流れる番組の様子を聞きながら、緊張して待っていました。
 毎回、番組の冒頭は回答者となる先生方の近況をおしゃべりから始まるのですが、その時にある先生が「今、高校の探究の授業に関わっているのですが、ある生徒から、どうやって疑問は生まれるのか教えて欲しい、と言われてしまった。この番組のこどもたちは次々と疑問を湧いてくる中で、この質問は厳しいなと感じた」という話をされていました。
 「疑問を持つ」小さなこどもなら誰でも持っている好奇心が、どこかで削がれてしまったのか、あるいはネットやテレビを含め情報過多の世の中で、どんなこともなんとなく知っているつもりになっているからなのか、この言葉はいろいろな意味で不安を感じさせました。
 わたしたちの暮らしはむしろ「なぜ?」と疑問に思うことばかりです。いつも持ち歩いているスマホもパソコンも、正直どんな仕組みで使えているのかわかりません。蛇口をひねれば水が出てくる仕組みも理解しているとは言えません。しかも疑問を持たずに暮らしてその恩恵に預かっています。「当たり前」のことを疑問に思うことは難しいのです。
しかし「どうしてだろう?」と湧いてくる疑問は、自分のいる世界を理解しようとする心であり、世界への関わりの第一歩なのだと思うのです。
 
 さて当の息子ですが、恐竜担当の田中先生からも「想像以上に勉強している内容だからびっくりしたよ」と言われながらも、丁寧な答えをいただいて満足しておりました。
 こどもの素朴な質問に真摯に答えてくださる先生、そして番組を続けてくださるNHKさんにも感謝です。こどもたちの素朴な疑問を面白がれる大人が増えれば、先の「どうやって疑問を考えたらいいですか?」という声も出ないのではないかと思います。
 ちなみに息子の質問は「なんで化石を見たら、いつの時代のものかわかるの?」というものでした。気になる方はぜひ調べてください。
 
 
 
 
 

2024年5月
先輩の姿は未来の自分

 
 39年目のだいだらぼっちがはじまりました。そして久しぶりに感染症対策の制限のないスタートです。
 ゴールデンウィークには5年ぶりに現役参加者の保護者に加え、OBOGたちも参加してのゴールデンウィーク合宿が開催されました。この合宿は39年前の母屋建設作業の際に、保護者などの力を借りて行ったことから始まりました。現在は、保護者やOBOGの力を借りて1年分の暮らしで使う薪を割ったり、積んだりの作業をしています。
 コロナ禍中は都市部からの来訪を制限していたこともあり、現役のこどもと相談員(スタッフ)のみで、朝から夕方までまる2日間かけて行っていました。1年分の薪なので相当量であること、広い敷地内に点在している薪を、それぞれ暮らしやすい場所に移動することも大変ですが、何よりも暮らし始めて1か月のこどもたちと作業することが、なかなかに苦労します。そもそも薪のような重いものを運んだ経験も少なく慣れていないことに加え、長時間の作業もしていないため、すぐ音を上げてしまうこどもがいるためです。
 そんな数年を過ごし、やっと今年から大学生や高校生のOBOGがたくさん集まってくれました。彼らはとにかくよく働く!豆がつぶれても薪を割り続け、大変な作業の箇所にも率先して入ってくれ、また食事などの片付けも積極的にやってくれました。おかげで作業も無事に終えることができました。
 思えば合宿作業にはいつもOBOGたちが集まり、作業する後ろ姿を見せてくれ、それが見本となって「自分たちの力で暮らす」という規範が作られていたのです。こどもをだいだらぼっちに送り出している保護者にとっても、これだけたくましくなるのだと安心をもらったと思います。
山賊キャンプでもこどもたちがボランティアの大学生たちの姿を見て、「私も高校生になったらボランティアで帰ってこられるんだ」と考えたり、何気ない会話の中で話される海外留学の経験や、大学でどんな勉強をしているかを聞いて、「そんな学びもあるんだ」と新たな世界を知っていく様子があります。
 他者との関わりは人とのコミュニケーションや協働を学ぶに留まらず、他者そのものの姿からも学び、自身の価値観や考え方、道を広げることにつながるのです。昨今は人との関わりを極力避け、自分の世界を大事にして、そこに幸せを求める人も多いように感じます。しかし、自分自身を規定してしまうのはもったいないと思うのです。自分が知らない自分に出会うためには、他者との関わりは絶対必要なのだと、この3日間のこどもたちの様子を見て感じています。