事務局長しんのエデュケーションコラム

Education Column of the secretary-general SHIN 

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2023年3月
こどもは必ず大人になる 

 
 このコラムも今年度の最後になります。2月は落としてしまいました。振り返って過去のコラムを見直すと、2月に書かれていないことが結構あります。他の月に比べて日数が短い!という理由もありますが、年度末の忙しさについつい流してしまっているのだなと反省しております。
 さてだいだらぼっちの1年が3/18で終わります。振り返ると本当にあっという間。4/1に集合した日が、ついこの間のように感じるねとこどもたちと話しています。
 とはいえ1年という時間は、こどもたちにとってはとんでもないものです。背も伸び、身体も大きくなるという生理的な成長もそうですが、重いものを持てるようになったり、できないことができるようになったり、人を思いやること、意見を言うようになったり、仲間と関係性を創り出すなど、1年前には想像もできない姿があります。
 思い出すのは4月の牛糞作業です。小学生女子たちと隣町の牛を飼っている農家へ肥糧にするための牛糞を買いに行ったのですが、8㎏ほどの袋を誰も持ち上げることができませんでした。数分で終わる作業のはずが、途中で心がへし折れ遅々として進みませんでした。
 しかし今となっては大人でも苦労するような薪を持ち運び、1日中作業をしてもまだ外で遊ぶほどの無尽蔵の体力を発揮しています。
 だいだらぼっちの暮らしはこれまで「やったことのない」体験ばかりです。そこで「できない」ことに出会うことで自分を知り、「できる」ようになったことで自信を身につけます。その繰り返しは、だいだらぼっちを卒業しても、「知らないこと」「できないこと」がアレルギーにならず、むしろ「面白そう」「やったらできるかも」という意欲に繋がっていくのだと思います。
 
 
 最近OBたちが寄せてくれた文章を読む機会がありました。当時は小学4~6年生のやんちゃな年ごろ。いたずらもたくさんして、その度にいさめたり、頭を抱えることも少なくなかった様子を思い出しながら読むと、本当にあの子?と思うくらいに立派になっているのに驚かされます。
 
 こどもはいつまでもこどもではないという当たり前のことをついつい忘れてしまいます。毎日顔を合わせていると、どうしても目先のことを口うるさく言ってしまい、こどもの「学び」を見守ることができたのか1年の終わりに反省しています。そんなことを感じられたのも、9年ぶりのだいだらぼっちの現場に入ったからです。改めて、こどもたちから学ぶことの大きさに気づかされます。
 2022年度も応援いただき、ありがとうございました。続く日々、繋ぐ時間、この先の未来を創るのは「今」であると、コロナ禍を経て思います。また変わらぬ一歩をこどもたちと踏みしめて参ります。新年度も応援よろしくお願いいたします。
 
 
 
 
 

2023年1月
創造する暮らしは、想像できる暮らし

 
 だいだらぼっち祭りの準備一色だった2学期の後半。冬休みが明けたこどもたちは解放されて、これまでの分を取り戻すかのように遊びまくっています。
そんな中で企画されたのが自分たちで育てたもち米を使っての餅つき大会。しかも今回は小豆も大豆も自分たちが畑で育てたもの。だいだら100%のお餅です。
 キャンプでは大人が手伝わないとお餅つきはできませんが、そこはさすがにだいだらっ子たち。薪割の斧を杵に持ち替え、見事にこどもだけの力で、15分程度でお餅に仕上げました。一方母屋では朝からコトコトと小豆を煮て、あんこ作りをしたり、大豆を炒って、石うすでひいてときなこづくりに余念がありません。
できたての餅はというと、そのおいしさに感動の声。あんこ嫌いや甘いものが苦手なこどもたちも口々に、「今まで食べた中で一番おいしい」と話していました。
 そんな中であるこどもが「100%だいだら産って言ったけど、砂糖は作ってない!」と気づきます。「来年は砂糖を創るためにサトウキビを育てよう。」「でも南国じゃないと育たないんじゃない?」「いやいや静岡あたりでもつくっていたことがあるらしい。」「自分たちで作るよりも、小豆かもち米を沖縄の人にあげて物々交換は?」など、様々なことを話していました。 
 
 「創り出す」という行為は自分の暮らしや身体を成り立たせているものが一体何なのか?を考えるきっかけをたくさんもらえるものです。様々なモノコトへの想像力を広げ、社会を知る手がかりとなるのです。一方、お店でお餅を買うだけでは、誰がどこで育てた材料なのか、どのように育ったものなのか興味を持つこともなかなかありません。
先日ある大学の授業で環境について話をする機会がありました。泰阜村の暮らしを例にして、「環境問題を加速させている原因は暮らしの変化である。つまり暮らし=消費になっている」ということと、解決のために「消費からひとりひとりが創り出す暮らしへの転換が必要」という話をしました。
 学生たちからは「納得しました」という反応と共に、「都市部で創り出す暮らしは難しい」という声が多数出てきました。「生み出す」というと、畑や田んぼで0から創り出さなければならないイメージがありますが決してそうではなく、「買ったご飯を食べる」から「食事を手造りする」程度でもいいのです。それは過程が増えるからです。それによって自分を成り立たせているモノコトが増え、想像の網が広がることが社会をジブンゴトに捉える一歩になるからです。
現在はタイパ(タイムパフォーマンス)を重視して、無駄なものを極力避ける傾向にありますが、そこにこそ知らなければならないものが秘められているのだと思います。
 
 
 
 
 

2022年12月
だいだらぼっち祭り 新しい世界を創る

 
暮らしの学校だいだらぼっちでは、いつもお世話になっている地域の方や学校の友達、保護者やOBOGたちを集めて日頃の感謝を伝える「だいだらぼっち祭り」という年中行事があります。100名を超える保護者やOBOGたちが集い、年代を超えた交流が行われたり、地域の方への挨拶をしたりと、多様な人たちがごちゃまぜになりながら、誰もが主体的に楽しむというだいだらぼっちの「豊かさ」を体現する場でした。
しかしコロナウイルス感染拡大により、外部から人を呼んで大勢の人を集めることはもちろんのこと、都市部の人と村民が交流することも難しくなりました。ここ2年はオンラインで行ったり、村民と保護者の2日程とるなどの縮小開催を余儀なくされています。
今年度はなんとかOBOGも呼びたい、人数制限をせず来たい人をできるだけ受け入れたいという意見がこどもたちから出てきました。過去最大のコロナ感染拡大が社会を席捲していた時期での話し合いでしたが、これまでの2年間で積み重ねた感染対策から、こどもたちは村民向けと保護者OBOG向けの2日程行うこと。だいだら関係者は人数制限を行う必要がないように、中学校の体育館をお借りして行うことを決定しました。
村向けの祭りには村民の方や同級生に加え先生方もたくさん集まってくださり、60名近い方が手作り屋台と劇を楽しんでくれました。そして保護者とOBOG向けには100名近く。日帰りにも関わらず全国から集まってくれました。
改めて人と人が出会う時間と空間は人間にとって大事なことなのだと気づかされます。それは共感です。SNSやオンラインでは得られない、身体を通じた共感体験は心の奥底での感動や自分の居場所があるという安心につながるような気がします。
もうひとつ今回得たものは、こどもたちがこの場を自分たちの力で生み出したことです。だいだらぼっちも37年目。歴史を重ねるということは、恒例行事や昨年度行ったことの繰り返しになることも増え、新しいことへのチャレンジが難しいのも事実です。そんな中、さらにコロナ禍で思い通りにできることが少なくなった中で、自分たちの望む姿を実現するために知恵を絞り、方法を探り、完璧なものでないにしてもなんとか生み出したことの意義はとても大きかったと思います。
今回の祭りはこどもたちの大きな自信につながり、また参加した方たちにも感動を与えました。「自分たちで世界は創れる」という実感はこどもたちの次のチャレンジの後押しとなるはずです。
さて今年も大変お世話になりました。こどもたちが目の前の社会に関わり、望む社会を創っていく力をつけていけるようだいだらぼっち、山賊キャンプ、学童などを行ってきました。ここで生み出された成果は社会の希望になるものだと信じ、新年もスタッフ一同努力して参ります。これからも応援よろしくお願いいたします。
 
 
 
 
 

2022年11月
こどもの学びを取り戻す畑作業

 
2022年度のだいだらぼっちも早いもので8か月が過ぎました。
9年ぶりの現場ですが、実はその以前から「こどもたちが畑を積極的に関わるためにはどうしたらいいか?」に悩みを感じていました。田んぼのようにやることが分かりやすくないので、こどもたちに任せられず結局大人が段取りを取ってしまったり、あるいは大人の知識不足で中途半端な知識を教えてしまったり、薪作業のように作業の成果がすぐに見えるものではないため、こども自身が主体的に関わらせることに苦労してきました。また「何を育てるのか」を考えるのも4月に集合してからなので、畑の予備知識0からのスタート。季節に合わせるというよりもこどもの暮らしに合わせたものになってしまい、昨年度同様のものが引き継がれるだけのこともありました。
最たるは収穫時期が夏休み期間になることが多いこと。4月に決めて、5月に作付け。必然的にこどものいない夏休み中の収穫になります。また夏休み期間が一番雑草も繁茂し、大人が世話をしなければならなくなります。そうなると徐々に気持ちも離れてしまいます。結果こどもたちも他の作業に比べると明らかにモチベーションが低くなってしまいます。
今年も4月から同様の話し合いが始まりました。植えたいもの食べたいものをどんどんと挙げていき、昨年同様に2,3人のグループで責任もってやろうという落としどころにまとまりそうなところを、「ちょっと待った!」と手を挙げました。
「いつもたくさんの種類を育てても、どれを自分たちが育てた野菜かわからなくなる。村の方から季節でたくさん採れるものはいただくことも多い。多品種を育てるよりも自分たちの暮らしに必要なもの、豊かになるものを絞って育てないか」というアイデアを出しました。決まりかけている話し合いを止められて、メンドウクサイという雰囲気も流れましたが、結果提案した意見にまとまり、今年度は必ず使うニンジン、大豆(味噌にする)と、お楽しみでさつまいも、落花生、小豆を植えることになりました。
大量にとれるとこどもたちの実感が変わります。ここ最近は毎日のようにこどもたちはお風呂で焼き芋を作っているのですが、村の方からいただいたさつまいもと食べ比べて、「やっぱり○○さんの家の方がおいしい。何が違うんだろう?」「土がめちゃくちゃ柔らかかったよね」と話していたり、「小豆であんこを作って、自分たちが育てたもち米でもちをついて食べたい」と、自分たちで育てたからこその言葉や意見が出てきます。
まだまだほったらかしになったり、面倒くさがったりということもありますが、それでも今年度は冬野菜も農家さんに育て方を教えてもらって積極的にチャレンジしています。それは今年の畑での実感があるからです。
実感があるとこどもたちの主体性はグンと伸びます。こどもをその気にさせるために、私たち大人が行うのは「実感できる」場の準備なのです。「教える教育」から「教えない教育」へ。こどもに学びを取り戻すことに尽きるのだと改めて感じます。
 
 
 
 

2022年10月
教えてグーグル先生

 
 泰阜村にもICT教育の波がやってきました。小中学校からタブレットを持ち帰ってくる暮らしがはじまります。
 自分たちの手と足と知恵を使い、仲間と協力して1年間暮らすという想いで集まっているだいだらぼっち。あえてテレビもパソコンもない暮らしを選んできましたが、いよいよ自分たちの意思とは関係なくIT化が進みます。お試しで持って帰ってきたときは母屋の机にタブレットがズラリ。かなりの違和感です。
 宿題だけでなく、生徒会活動のためにも使うようで、これまでなかったネットとつながる環境も含め、どうやって使っていくのかの話し合いをすることになりました。
 宿題だけでいいのではという意見の一方、モノづくりの参考にyoutubeを見たいとか、畑や鶏の育て方など調べものにも使っていいのではという意見も出てきました。大人からの意見で言えば、せっかくの山村の暮らしに例えモノづくりの参考にせよyoutubeばかりを見るような暮らしはどうなのかとも思いますし、関係ない動画を見ていて注意をするようなことは最もしたくありません。これまでなくても問題なかったはずが、「せっかくあるなら使いたい」という意見が出ています。
 
 こどもたちはだいだらぼっちで活動の計画を自分たちで立てます。これまでもスキーに行くとなれば、リフト代やスキー場までどれくらいかかるのかを知らないと計画できないため、大人が自分のPCやスマホを使って調べて教えていました。正直、誰がやっても同じ結果しか出ないものを、デジタル的なものだからとこどもに触らせないのもナンセンスだと思います。
 これまでは鶏の飼い方や畑で何を植えるのか調べるには図書館で本を探したり、村の方に教わっていました。グーグル先生で調べればあっという間に答えが出て、無駄な時間は確かに減るかもしれません。
 あれば使いたくなるのが当たり前です。人類の歴史は「大変なことからいかに楽ができるか」と自由を獲得するために発展してきました。わたしたちの仕事もインターネットのおかげで大分楽になっています。しかし、その「楽」が「学び」を奪っているのも事実です。
 「わからないことをまずはやってみる」という行動は、成功も失敗も自分の成長の糧にできます。試行錯誤という大事な時間を体験できるからです。「わからないから村の人に聞く」はその土地で培ってきた経験を学び、人に対する尊敬を学びます。
 「答え」だけが学びではありません。その周辺にある出来事すらも、全てが発見と気づきとチャンスになります。そして多くの学びは正解があるものではないことに気づきます。
 1年の暮らしが終わり地元に戻れば、PCやスマホも使い放題です。ならばこの限られた1年くらいは、「簡単に答えが出ない暮らし」を楽しんでもらいたい。その過程にある失敗や悩み、戸惑いを乗り越える経験こそ重要なのだと思います。寄り道こそが学びの本質なのです。
 
 
 
 

2022年9月
良い答えを導く話し合いとは

 
 だいだらぼっちの2学期が8/20からはじまり、早々に大きな話し合いがありました。例年行っているだいだらぼっち祭りをどのような内容にするかというものです。
 だいだらぼっち祭りとは、お世話になった地域の方やOBOG、保護者に感謝の気持ちを伝えよう、だいだらぼっちの暮らしをもっと知ってもらおうと始まったものです。コロナ前は100人以上が集まって宿泊も伴う大きなイベントでしたが、この3年はオンラインだったり、内容を縮小して地域の方と保護者の方を分けての実施だったりと方法を苦慮しています。
 自作の劇を上演するのが開所2年目からの恒例となっています。今年も劇をやりたいという声が上がります。もうひとつの意見として屋台をやってみたいという声も。宿泊で行っていた過去のことを考えれば両方できそうですが、一人のこどもから「やるなら本気でやりたい。そのためにはどちらか一個に絞るべきだ」というものが出ました。周りのこどもたちも同調する様子です。開催は3か月先で、十分準備の時間もありますが、コロナ前の様子を知らないこどもたちにとってはイメージできないようです。
そうなると、劇か屋台かどちらを選ぶのかの話し合いです。しかし、「劇はなんか人前でやるのやだからやりたくない」「屋台もコロナで食べ物出せないならやっても意味ない」などと、「やりたくない」意見をぶつけ合います。これは「話し合い」ではありません。否定の意見では答えは出せません。
 その日は時間切れで一旦お開きに。大人としても堂々巡りの話し合いを繰り返させたくない。そこで少し視点を変えて考えさせようと、「どちらかひとつだけを選ぶとしても、まずはみんなで、屋台なら屋台、劇なら劇、どちらか一方だけをやるとしたら、どんな風にやったら楽しくなるかの意見を出し合おう」と伝えました。
 最初は「もう話し合い進んでるんだから、メンドウクサイ」という様子のこどももいましたが、少しずつ出されるアイデアに、だんだんと盛り上がってきます。
 結果、当初劇は絶対嫌だ!と主張していたこどもも、やってみたいと気持ちも変わり、どちらも実施することになりました。
 同じ主張を繰り返すだけでは、相手に届きません。強い言い方では余計にバリアを張ってしまいます。ネガティブな発言は最後にどちらかに決まっても、しこりが残ってしまいます。目指す目的は「感謝を伝えるお祭りをする」というもの。その目的に見合った、よりよい手段を選ぶというのはポジティブな発想から生まれてくるものです。
 そもそも「話し合う」という文化が、こども社会で失われてきているのかもしれません。その状況で体験だけで身につけさせようとすると、逆にマイナスを学ぶ可能性もあります。目標に向かって、相手の意見を聞いて自分の意見も伝える。話し合いの作法は大人がちゃんと伝える必要があるのです。
 特に昨今の一方的な主張を繰り返す政治家たちの姿を見て、「話し合う」ことが、社会からすでに失われつつあるのかもと危惧してしまいます。
 
 
 
 

2022年8月
コロナ禍の山賊キャンプが終了しました

 
 2022年度の山賊キャンプが8/29をもって終了しました。
 新型コロナウイルスの感染拡大がはじまった2020年は全面中止。2021年は参加人数を1/4に縮小して実施しましたが、再び感染が拡大して無念の途中中止。今年度はコロナ前の半分の規模にして、できる限りの実施方法を検討してスタートしました。結果1コースを中止としましたが、18日程のキャンプをなんとか実施することができました。参加者数はこども434名とボランティア127名でした。
 事前検査や1日4回の検温、黙食の徹底など、まだまだ制限も多く、コロナ前の姿には戻すことは難しいですが、それでもこどもたちがこどもたちらしさを発揮し、思う存分身体を使って遊ぶ姿を見て、「終えられた」ことに大きな価値があったと感じています。
 キャンプが終わって保護者からのアンケートが続々と届いています。感覚的にはこれまでのキャンプよりも反応も早く、数も多いように感じます。その中の言葉からキャンプの様子をお伝えします。※以下カッコ書きはアンケートの言葉を要約して記載しています。
 
 「お迎えから自宅に帰るまでずっと興奮状態で話し続けていました」「兄弟でキャンプに参加。どちらも我先に話したくて兄弟げんかしています。」
 溢れるほど話したいことがあるのは、親としてもうれしいものです。中にはこんな言葉も。
 「いったい普段の学校や家庭と何が違うのでしょうか?」
 
 ひとつには、「話し方がグンと大人っぽくなった。いろんなことを自分で決めたんだと自信たっぷりです」の言葉の通り、「自分で決めた」ことを実行していることに他ありません。
 その中には「勇気を振り絞って川に飛び込んだ。怖かったけれどやってみたら平気だったよ」や「敬遠していたズッキーニを食べたという話」にも表れます。
 ちょっとの勇気が世界を広げる。その世界を広げるのは自分であると気づけたことに大きな意味があります。
 
 チャレンジすれば当然失敗もあります。「お米を12合焚いて」しまっても、「キャンプ中に何度もリトライできたこともよかったです。2泊ぐらいのキャンプでは一回でうまくいかないことがほとんどなので」のように、失敗が取り返せることで、失敗を肯定的に捉え、「自分から率先して何かをやろうとする意欲や人を助けようとする姿勢」へと変化します。
 すでにキャンプで得たものが家庭に表れている様子も届いています。「家でもお手伝いを積極的にやるようになった」「自ら料理を毎日2品作っています」「全部手作りのゼロコースに行って、普段いかに楽に過ごしていることに気づき、文明てすごいな。と話しています」と、暮らしへの関わり方と見え方が変わり、行動や価値観を自ら変えていきます。
 
 「流れ星が見えてものすごくきれいで感動したと一番に話してくれた」「野宿をしていて、夜中に目を開けたら、見えたんだよ星が!」「天の川が見られたよ、朝焼けがとてもきれいだった。見たことのない小さいセミがいた」
 同じ場所にいてもそれぞれが獲得するものは異なり、それが肯定されれば、こどもたちは自分の感性をどんどんと磨いていき、世界を感じとるセンサーを磨いていきます。
 
 仲間との暮らしでは、「人に何かしてもらったらありがとうと言えるようになって帰ってきました。当たり前のことですが、つい日常ではおろそかになっていました。」と他者との関わりの中で、大切なものに気づくこともあります。
 
 「自分で決めて色々できるのが楽しい。暇な時間がない」と話す通り、山賊キャンプの「魅力はこどもに主導権があること」です。この場があるだけで、こどもは変化します。しかしその場を創り出すためには、周りの大人がゆるやかな輪を作らなければなりません。
 
 「コロナ禍の中実施していただき、ありがとうございました。」
残念ながらひと組のキャンプ終了後に感染の連絡もありました。それでもまたとないこども時間に、こどもの身一つで体験する場を用意できたのは、私たちだけの力では実現できませんでした。地域の方、そして保護者の方の理解と協力があってこそのものです。与えられることが当たり前の現代において、誰もがその場を作る参画者になれるのが、山賊キャンプの本当の魅力であり、力です。「親の期待を持ち込まない」の言葉にこの指とまれをしていただいた皆様に深く感謝申し上げます。
 
 「不便な生活の中で、こんなにもこどもが成長するのだと知りました」
仲間と四苦八苦しながらご飯を作り、雨を乗り越え、時にさみしさに耐えながら過ごすキャンプで得たものは、自分の全身すべてで浴びた体験と、自らの動いた心に耳を傾けた時間です。それらが全てこどもたちの血肉となり、ねっこの栄養となります。
 
 わたしたちも一歩踏み出す勇気をこどもたちからいただきました。不透明な時代を切り開くのは自分たち自身であると覚悟を決めた夏となりました。
 
 
 
 

2022年7月
一人一票の難しさ

 
 だいだらぼっちも1学期を終えようかという時期に、こどもたちから「だいだらぼっちはこどもが主役と言っているのに、大人が決めている!」という意見が出て、話し合いが持たれました。
 しかし「大人が決めた」と言われるその話し合いは、こどもたちからも意見が出て全員で決めたもの。大人が決めたというのは納得が行きません。(話し合いの詳細は長くなるので割愛します)
 そこで私も意見を言おうと手を挙げかけたのですが、他のこどもたちから「えっ、あれってみんなも『いいです』って言ったよね?私もいいですって言ったから、全然大人が決めたとは思っていないよ」「俺も納得してるし、むしろ納得していなければ絶対いいとは言わない」という意見が出てきました。「確かに大人が最後に話し合いをまとめてもやもやすることはなくはない。でもそれは意見が言えなかった私たちの問題もあるんじゃない」
 ものすごく冷静で的を射た意見です。しかも私も言いたかったことを全部言ってくれました。私が言わずとも、こどもたちはちゃんと理解していたし、なにより一人の人として自律していました。余計なことを言わないで本当に良かったと胸をなでおろすのと同時に、こどもたちの頼もしさに改めて驚かされた出来事でした。
 「こどもが主役」とは、こどもが決めた意見が、まるごと、そのまま、その通りになることではありません。誰もが主役なので、一人だけ主役になって、他の人はわき役というわけではない。となれば当然、出した意見が通らないこともあります。こどもが主役とは、自分が自分のことを決めるという覚悟です。言葉の意味を取り違えてしまうと、自由と勝手が混同されてしまい、自分勝手なつまらない場所になってしまいます。だから「一人一票」というオキテが大切なのです。
 
 一方で、「大人が決めている!」という言葉は、だいだらぼっちで働く私たち大人にとっては最も重い言葉です。だいだらぼっちが大切にしていることを、大人が壊してしまっているかもしれないし、そのつもりがなくても「大人が決めてしまっている」ことがあってもおかしくないからです。
 こどもと大人が同じ一票を持つ、一人一票の話し合いは本当に難しいもの。常にその危ういバランスを綱渡りのように歩いています。例えば待っていればこどもから意見が出ることもありますし、出ない答えに向き合ってなんとか意見を出そうとすること、あるいは意見が出ない時間もこどもたちにとって意味があります。また前述の通り、こどもからの率直な意見も出てきて、自分たちで解決する力もありますし、一方で私個人の意見が大人だからと言って押し込めることもいいわけではありません。
 大切なのは出した答えが良いか、悪いかではないのです。経験も考え方も年齢も違う人が集まり、目の前の問題を我が事として一生懸命知恵を寄せ集めて考えること、そしてお互いの意見に尊敬をもっていることが一人一票の本質です。誰もが率直に想いを伝えられ、聞いてもらえる場を守ること。それが私たち大人の責任なんだなと、書きながら改めて気づいてきました。
 
 
 

2022年6月
自ら考えるを育てるのは「不安定な場」

 
 今年は2年ぶりに、山賊キャンプもベーシック、チャレンジ、スーパー、ゼロと4つのコースを復活させ、平常運転に近づけて募集を開始しました。2年の間にリピーターたちも学年があがり、参加するこどもの数は減ってしまうのではないかと不安を感じていましたが、定員を大きく上回る申し込みがありました。うれしい悲鳴とはまさにこのことです。残念ながら申し込みから漏れてしまったこどもたちには申し訳ありませんが、今年の開催が足掛かりとして、来年度以降の定員増に進んでまいります。
 
 山賊キャンプは「こどもが主役」。つまり「主体性」を大切にしています。保護者の方から「うちの子、主体性がない」という言葉を聞くこともありますが、もともとは誰もが持っている力です。重要なのは、使わないとどんどん退化するということ。なぜなら人間は楽をするように作られているからです。考えなくてもいいのであれば、考えない方を選びます。
コロナ禍の様々な対策も同様で、当初は「毎日マスクをするなんて」「給食を黙って食べるなんて」と厳しい制限に不満や苦しさも感じていましたが、今や当たり前の風景です。対策を新たに考えるよりも、言われたことを守っていればある程度は身を守れる。ならば言われた通りにした方が良いということになります。しかも周りも同じ行動をとるのであれば、なおのこと。このコロナウイルスの影響では考える力、つまり「主体性」も奪われているのではないでしょうか。
 
 「自ら考える」場は、不安定な状況、決まっていない場にこそ生まれます。
山賊キャンプは自分たちで考える、こどもが主役のキャンプです。初めて会う仲間と、ご飯を作り、プログラムを考えます。しかも時計がない生活です。そこにはたくさんの「余白」があります。その余白は、「何が起こるかわからない」という偶然と、「自分たちで考えなければ進まない」という必然を生み出します。つまり不安定な状況に身を投じます。
 
 現代社会では、不安定さを快く思わない風潮が蔓延しています。一方で世界は、突発的な自然災害に未知のウイルス、戦争などが頻発し、いつ何時自分の身が不安定な状況に陥るとも限りません。そのためにできることは、「考えること」が奪われていることを自覚し、自分で考える場に身を投じることしかありません。
 
 これからますます想像もできない出来事が増えてきます。そして答えは自分ではない「誰か」が出してくれません。「自分で考える」の入り口として、この山賊キャンプに大きな意味を持つようになったと感じています。私たちの存在意義が大きくなることが果たして喜ばしいことなのか?その疑問を抱きつつも、それでも未来を少しでも豊かにするために、この夏、出会うこどもたちが存分に自分を発揮できる場を創ってまいります。
 
 
 

2022年5月
考えて創り出す経験

 
 「今年は登山にたくさん行きたい」とだいだらぼっちのこどもたち。早速5月に隣町の富士見台高原まで行ってきました。片道7kmと長距離登山ではありますが、苦しい登りははじめだけなので、今年のこどもたちの体力を測り、今後の活動計画の材料にもなるもってこいの山です。
 昨年も登っていたことで、2年目、3年目のこどもたちからは「なんか今年の方が楽な気がする」「去年より早いね」という声が聞こえてきます。
実際に昨年度よりも早いペースで進んでいます。おそらく知っている道なので迷いなく歩いていることがひとつ。もうひとつは知らない道はすべてが初めて見る景色なのでゆっくりに感じますが、2度目ということで感覚的に早く感じたのだと思います。
 そんな順調な登山でしたが、前日の雨により登山道が川になっている場所が増えてきたため、こどもたちの靴では歩けないと判断し、あえなく中断となってしまいました。残念。それでも4月、5月と忙しく過ごしていた毎日からちょっとだけ一息つけて楽しい時間を過ごせました。
 
 知っているということは「楽」。答えがわかっているから安心して道を進むことができます。逆に言えば知らないことへの挑戦は「大変」ですが、その分学びも多いのです。
 だいだらぼっちは1年間どんなふうに過ごすのかを話し合って決めますが、昨年度楽しかったものをまた今年もやりたいといって繰り返すことが多々あります。中には私が来たばかりに提案した「ナイトハイク(深夜に出発して遠距離を歩く)」のように、いまだに続けているものも。
 「楽しかったことをまたやりたい!」という気持ちは当たり前のことです。繰り返すことで深まるものもありますし、決して悪いことはありません。けれど記憶も企画もフォーマット化されてしまう弊害もあります。自ずと「楽しかった」その面影を再度再現しようとして、「去年の方が楽しかった」と感じてしまったり、実施する方法もある程度フォーマット化されてしまうため、考えなくてはいけないことが少なくなります。
 見たこともない、やったこともない、はじめてのことを実現するには「どんな風にやろう」「どうやったらうまくできるか」という計画を綿密に立てなければなりません。その過程が熱量になります。なにより「考えて創り出す」という経験は、こども自身が自分の道を歩んでいく原体験となります。正解があるように感じてしまう現代社会において、それはとても貴重な体験となりつつあるのではとも感じます。
 
 
 

 

2022年4月
正義の危うさ

 
 8年ぶりに「だいだらぼっち(山村留学)」の現場に戻りました。
 集合して1か月。連日話し合いや田んぼや畑、薪作業に追われる濃密な時間を過ごし、少しずつ現場勘も戻ってきたように感じます。
 このコラムもだいだらぼっちの現場にいるとネタに事欠きません。
 
 18名の暮らしも少しずつリズムも出始め、さらに学校もはじまったことで非日常が日常へと変化します。仲間同士の関係性も緊張感が薄まってきて、距離が近づいていく一方で、お互いへの不満も出てくる様子です。そんなころのある日の連絡(夕食後に行う毎日の話し合い)でこんな意見がありました。

 「宿題をやらない人がいます。やった方がいいと思います」
さらに「自分の好きなことばかりやるのはズルい。宿題をやらないならご飯当番にも入らない方がいい」
 当の本人は「やりたいけど、掃除とか洗濯とかでいっぱいになっちゃう」という声に対して、いっせいに手を挙げる他の小学生たち。「一緒にやろうと声を掛けているのだから一緒にやればいい」「掃除は終えられる時間はいくらでもある」などなど本当に真っ当な、正しいことを突き付けてきます。
 
 しかし正義はややもすると暴力になりえます。まだだいだらぼっちに来て間もないこどもたちは、他の話し合いではまだまだ遠慮して発言も多くありません。にもかかわらずこの宿題の問題が立ち上がったときは意気揚々と手を挙げて意見を主張します。
 「宿題はやるべき」というわかりやすい正義はふりかざしやすいものです。正しいとわかっているから大きな声で相手を責められてしまうのです。
 さらに「ご飯づくりは楽しいこと(好きなこと)」で「宿題はやらなければならないこと」という言葉。朝5:30から起きて、みんなのご飯を作ることの方がよっぽど尊く、生きていくために必要なことは宿題よりもご飯づくりでしょ?とわたしは思います。しかしこれも反論はあるはず。どちらが正しいということではありません。
 どちらにせよ、わかりやすい正義に寄り掛かることは、考えることを奪い、安易に人を攻撃しても良いという雰囲気を作り出してしまうのだと改めて感じました。
 
 昨今のネットでの誹謗中傷などと同じ背景を感じつつも、一方でだいだらぼっちのこどもたちは、自分自身の発言である責任から逃れていないというのは大きな違いです。これから嫌というほど、正解のない答えを問われ続けることになります。その中で、自分自身が発言すること、行動することの中で正義の危うさにきっと気づくと信じています。
 ちなみに2年目、3年目のこどもたちは、「宿題やるやらないは個人のことでしょ。それ以上みんなで責めても意味なくない?」「だいだらぼっちのこどもがひとくくりで言われているなら今の意見もわかるけど、ちょっと言いすぎ」と諫めていました。多様な関りの中で答えが発見できる場こそ大切です。